【「狂言」の語源】
「狂言」の語源は、中国語の「狂言綺語(きょうげんきぎょ)」から来ていて、「偽り飾った言葉」ということで、仏教の側から文学などを否定する立場で使われました。それを、中国(唐・八〜九世紀)の詩人・白楽天(白居易)が、「狂言綺語の業も転じて讃仏道の縁となる」と言ったことが日本にも伝わりました。その後、「偽り飾った言葉」という意味が「常軌を逸した、戯れの言葉」という広い解釈を与えられ、滑稽な芸能を指すようになり、さらには今日で言うところの伝統芸能の「狂言」を表す言葉となりました。
【狂言の発生】
伝統芸能の「狂言」は14世紀頃の室町時代に現れた日本初の“喜劇”です。それまでの時代においては人々を面白がらせるものは、軽業や物真似などの見た目の面白さが中心で、猿楽や田楽などが人々を楽しませていましたが、猿楽において筋書きのある見世物が考案されました。そして歌舞を取り入れたものが「能」と呼ばれ、言葉遊びや語りを取り入れたものが「狂言」と呼ばれるようになりました。台詞を聞かせて笑わせるというのが狂言の最大の特徴といえるでしょう。
【狂言の確立】
猿楽に対抗し、一大勢力であった田楽でも能を作って対抗しましたが、14世紀に観阿弥・世阿弥を輩出した「猿楽の能」には負けてしまい歴史から姿を消していきます。一方、狂言も同じ猿楽であるにもかかわらず、将軍家に庇護された能の前では下品で洗練されていないとのことから、能に従属する立場を取らざるを得ませんでした。この頃の狂言は人を面白がらせるという要素が強く、筋立てやネタも即興的に作り出していました。15世紀後半頃になると、受けるパターンが分かってきたのか、筋立てなどが固まってきました。
16世紀になり、戦国の世を制した豊臣秀吉によって、各地に存在した猿楽の座(劇団)のうち大和の四座(観世、金春、宝生、金剛)は給料をもらい身分を保証されました。しかしそれ以外は自力で頑張るか、四座に取り込まれていくかの道をたどり、猿楽業界の再編が行われました。豊臣秀吉はパトロンであると同時に、自らも能や狂言を演じるほどの大のアマチュアでした。
その後の天下を握った徳川家康も秀吉の政策を踏襲し、さらに猿楽を幕府の儀式で演じるように決めました。これ以降、能も狂言も洗練され演じる台本も整理されていきました。
【歌舞伎の誕生】
四座以外は生き残れなくなり、幕府に猿楽が取り込まれていくと、それを補うかのように歌舞伎が隆盛してきました。その歌舞伎の成立に関わったとされるのが四座以外の狂言師でした。そのため、歌舞伎の演目が「狂言」と呼ばれ、転じて作り話を狂言と言うようになりました。ですので、強盗にあったと嘘をつくことを“狂言強盗”などと言います。狂言は歌舞伎の成立に関わってはいるものの、江戸時代に歌舞伎に取り込まれた演目は三番叟ぐらいで、花子に取材した身替座禅などの秀作は明治に入ってからできました。
【苦難と発展】
大政奉還により徳川幕府がなくなると、役者はたちどころに生活に窮してしまいます。ある者は猿楽を捨て、またある者は働きながら細々と役者を続けていきました。しかし、外交を繰り広げる明治政府が海外の要人を歓迎するために猿楽を見せる事を決めたので、猿楽は再び息を吹き返しました。おそらくこの時に「猿」が野蛮であると受け取られ、「能楽」と名を改められたと思われます。息を吹き返した能楽は貴族や金持ちをパトロンとして存続することとなりましたが、笑いは下品であるという時代であったため、狂言は冷遇されました。
それが太平洋戦争敗戦により庶民の手に戻ることとなります。そして笑いの解禁とともに狂言も再び活気付きます。それまで苦労を重ねてきた役者や、若手の新しい試みなどにより「狂言ブーム」が起きます。そして今、若手の活躍により再び「狂言ブーム」が起きています。能の方でも若手の活躍が目立つようになりました。2001年にはユネスコによる最初の世界無形文化遺産に指定され、能楽界には追い風が吹いていますが、これにうまく乗って古典の世界を広め、深めることが狂言界のみならず、能楽界の課題となっています。
参考:狂言ハンドブック