文 蔵(ぶんぞう)


「・・・という所ばし、食うたか?」
 

分  類:大名狂言 準大名物

登場人物:主(シテ)、太郎冠者


 あらすじ

 主に暇も乞わずにどこかへ出かけた太郎冠者を主が叱りに行く。京内参り(都見物)をしたと聞いているし、都の様子を尋ねる。太郎冠者が主の伯父の所へ挨拶に寄って珍しい物を振舞われたと言うので、それは何かと聞くと太郎冠者は忘れたと言う。主は食べ物の名をいろいろと挙げるが、どれも違うと言い、何か物によそえて覚えてないないかと言われて、冠者は、主人が日頃読んでいる書物の中にあるものだと答える。
 主が「石橋山の合戦物語」を語ると、聞いていた太郎冠者は、文蔵ということばが出てきたところでそれを食べたと言う。主は、それは温糟粥(うんぞうがゆ)であろうと言って、「主に骨を折らせた」と叱って留める。

 

 みどころ

 この狂言には、他の狂言にはない希有な形のおかしさがあると思います。馬鹿馬鹿しい駄洒落等の思いつきひとつで作られた短い狂言は沢山あります。その一方で、しっかりとした筋書きを持っている狂言もありますし、また、たとえ駄洒落が題材だとしても、それらを何回も繰り返す長い狂言も幾つかあります。しかし、馬鹿馬鹿しい思いつきひとつだけで作られ、それでいて長く難しく、雰囲気の重い曲を挙げるならば、この『文蔵』ぐらいしか見当たらないのではないでしょうか。
 似たような狂言に『薩摩守』があります。「花や今宵の」の歌で知られる平家の公達、薩摩守忠度と、「ただ乗り」とを掛けた秀句ひとつを題材に作られた曲です。しかし、このネタを無理なく筋書きに入れようとするあまり、この『薩摩守』は中途半端に媚びたような狂言になっている気がします。
 一方、『文蔵』はもっと馬鹿げた落ちのネタひとつで作られていますが、複雑な筋はありません。長いのは大半が筋に関係ない語りであって、曲の重さ難しさを増すと同時に、落ちを際立たせています。
 しょうもない題材ひとつで大作を書こうとする作者の発想。そしてその作品の存在。そこに、何となく贅沢なおかしみを感じます。そういう曲の性格もあって、爆笑できるところはありませんが。主の最後のセリフ「由ない物を食ろうて、主に骨を折らせおった」の様に、あなたの「つまらん落ちのために、観る手間を取らせおった」という苦笑こそ、作者の罠にはまったと言えるのではないでしょうか。

・・・以上、平成六年「京大学生能」パンフレットより、『文蔵』のシテを勤めたO君のぶあつい思いをほぼそのままの形で掲載しました。確かに、『文蔵』は余りにも、仕草を交えた“語り”という技術を見せようとする演出意図を含んだ作品であり、その狂言師の技術に感心する方が勝り、観る側にとっては面白い狂言とは言えないかもしれません。
 けれども、やはりあくまでも語りを曲中のもの、ストーリーの一部として聞いていると、たかが一つの食べ物を思いだすためだけに、汗かきかき(特に、うちの網谷先生の場合は)必死こいて物語っている主、かたや太郎冠者はボーッと聞いているだけ(ここの所、実際に太郎冠者が語りの途中から、コックリ居眠りしかけても、面白いと思うんだけどな)・・この構図がなんとも可笑しく感じられてくることでしょう。そして、主が突然語りを中断して、太郎冠者に「・・・と言う所ばし食うたか?」と、狂言師の技術拝見モードからいきなり狂言的世界に呼び戻される所は、多くの観客に笑いをもたらすでしょう、きっと。語りという硬質なものから、ふと卑近な食べ物話に戻ることより生じる落差が、笑いを誘うのです。
 僕もいつかは『文蔵』をやってみたいです。『文蔵』なら、語りの部分だけを、紋付き姿で演じることもできますし、狂言の演者の中には「これだけやれば十分」と考えている人がいるかもしれません。『文蔵』の語りを『那須の語』に繋がる稽古段階の一つという捉え方があれば、そう狂言師が考えるのは妥当な所でしょう。でも、僕はちゃんと狂言の『文蔵』でやりたいですよ、やはり。「・・・という所ばし、食うたか?」「これ(文蔵)は人の名じゃが・・・食うたか?」といった珠玉のセリフが是非言ってみたいですから。もし『文蔵』に、この気の利いたセリフが存在していなかったら、僕はこの狂言に、なんの面白みも見いだしてないかも知れません。やっぱり僕は「かっこいい」より「笑われたい」を取るようです。


このように、紋付き姿で「語り」のみの場合も。

文:湯田拓也

 

 公演情報

'98 4/29(水・祝) 三大学狂言会(春の会)
          於 京都・八坂神社能舞台


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