分 類:脇狂言 百姓物
登場人物:丹波国百姓(シテ) 淡路国百姓 奏者
あらすじ
淡路国と丹波国の百姓が、都にいる領主に年貢を納めに行く途中、道連れになります。実は二人の領主は同じ人物で、所を隔てた国の百姓が同時に年貢を納めに現われたことを喜び、歌を詠むように要求します。二人が見事に詠んだので、記録に残そうと領主は彼らの名前を問います。ところが、それぞれ大変珍妙な名前と、あまりに長い名前であったため、取次ぎの奏者は覚えることができません。領主に直接申し上げることになってしまった二人は、奏者に拍子を付けて名前を問うてもらい、拍子に乗って答えるのでした。
みどころ
それぞれの百姓の名前の珍しさと長さ、そして、最後の場面で拍子にかかって名前の問答をするところがみどころです。はっきり申し上げて、ここだけです。というのも、「百姓物」と呼ばれる狂言は、構成がほとんど同じであるためです。二人の百姓が出会うところ、その道々の会話、年貢の納め方、一方の百姓はちょっといたずらっぽいところがあること・・・古い台本などでは「ここまで〇〇(狂言の曲名)に同じ」としか書いていないものも多くみられます。
後半部分で奏者に何を求められるか、それに百姓達がどのように対応するか、がそれぞれの狂言の個性となっていますが、貢納のめでたさが「百姓物」の特徴です(「佐渡狐」は例外)。
うんちく
さて珍妙な名前と長い名前ですが、淡路国の百姓の名前は「問うて何しょ」という、尋ねた者を驚かせる珍しいものです。そして丹波国の百姓の名前は「くりのきのぐぜいに、もりうたにたりうた、たりうたにもりうたに、ばいばいにぎんばばい、ぎんばばいにばいやれ」という長さですが、一体どのような意味があるのでしょうか。
『大蔵流狂言書』、『狂言記』などでは、最初の「くりのき」だけが漢字表記となっており、「栗の木」であると分かりますが、残りの部分はひらがなです。これに対し『鷺流狂言伝書 保教本』を見てみると、「栗ノ木ノ弘誓ニ 田利ウ多ニ最利ウ多 最利ウ多ニ田利多 倍々ニ銀倍 ギンババイニ倍アレ」と記されています。作者のこじつけとも考えられますが、イメージはつかめるのではないでしょうか。「弘誓」は、仏・菩薩の広大な誓願という意味です。田地からの利益が一番多く、銀が倍になって・・・という縁起のよさが伝わってきます。
また、『狂言記』(岩波書店 新日本古典文学大系)の注釈には、「栗の木の貢税に足りうたに盛りうた で、貢納の栗がいっぱいある、という意か。栗は古来丹波の名産」とあり、こちらもめでたく、無理のない解釈と言えます。
右の注釈にあるように、栗は丹波国の名産で、『延喜式』の税について述べた項目で、平栗子(ひらくり)・搗栗子(かちくり)が庸として挙げられています。それならば丹波国の百姓の年貢は栗がふさわしそうですが、なぜ名産品でもない昆布を捧げているのでしょうか。『天正狂言本』によれば、この「昆布柿」はもともと「三人百姓」という狂言で、三人の百姓は、丹波が柿、越前が紙、若狭が昆布を納めていました。ところが、百姓を二人に減らす演出の際に国名が混乱し、丹波が昆布を納めるなどということになったのではないかと推測されています。
淡路国は、古代、大王家に山の幸、海の幸を貢納し、「御食都国(みけつくに)」と呼ばれるほどでした。しかし、その貢納品は雑魚や米で、柿は名産ではありません。淡路国の百姓は科白の中で「淡路柿(あわじがき)を捧げまする」と言っています。渋を抜いた柿を指す言葉で「淡柿(あわしがき・あわせがき)」という古語があるのですが、そこから来た語呂合わせと考えるのは、想像をたくましくしすぎでしょうか。(ちなみに「合柿(あわせがき)」という狂言がありますが、ここに出てくる柿は宇治産です。)
いずれにしても、昆布も柿も、古来の風習や信仰と深い関わりがあり、その縁起のよさでこの狂言のめでたさ(祝言性)を強調しています。
大蔵流では明治以後廃止曲の中に入れられている、不思議なところも多い狂言です。
うきち記
公演情報
2001年11月14日 京都大学能と狂言の会