伯母ヶ酒(おばがさけ)


だんだんいい気分になってきたよ、こりゃ

 

分  類:聟女狂言 その他

登場人物:甥(シテ)、伯母


 あらすじ

 酒を商う伯母が振舞ってくれないので、甥は風流(ふりゅう:武悪面を使用)の面を付けて鬼に化け、伯母を脅して酒を飲む。面が酒を飲むのに邪魔 になり、膝頭に掛けたりして飲むうち、酔いつぶれて寝てしまい、伯母に正体を見あらわされる。 


こんな格好で、酔っぱらっちゃうから・・・

 みどころ

 この狂言の見所は、やはり酔いの型ではないかと思います。酒蔵に入って酒を飲みつつ、一杯飲む毎に伯母に覗きに来られて悟られぬよう、一々脅しては飲むのですが、言わばその脅す行為がインターバルとなって、その度に酔いの度合いを深めて行かねばならない、それがうまく表現できているかどうか。他の狂言の様につっかけて飲む曲では、グラデーション状に酔わねばならずそれはそれで難しいのでしょうが、(筆者はま だやった事がないのです)この狂言の、確実に三段階を(冷めていく所も含めれば四段階)を演じわけなければならないというのも、演者としては中々の歯ごたえです。台詞の間、吃りの割合、発音の明確さ等を、テープに入れていただいた師匠の台詞を聞きつつ、練習期間中に掴み取り、さらに自分の物として表現できねばなりません。さて、それがうまくできているかどうか、見てあげて下さい。
 また、狂言は型の芸ですが、やはり演劇としての一面もあります。私は常々「狂言とはマンガと同じく記号だ(まあ、厳密に言えばこの世の中には地図から人間存在そのものに至るまで記号でないものなどないのですが)」と主張しているのですが、その記号の体系自体が「人間」という別のより複雑な記号体系を参考・簡単化したものである以上、その影響を大きく受けているのは当然の事です。ただ単に「型」として師匠の真似をするだけでなく、現実世界を如何に観察しているか、という事も芸の間や味が如何に出せるかという事に関わって来ると思います。(もともと狂言は物まね芸を祖に持ちますしね。)だからよく、実際に酒飲みですぐ酔い潰れてしまう人より、冷静に周りでそれを見ている人の方が酔う型をさせるとうまいなんて言ったりします。(どこまで本当 か知りませんけどね。)現実の人間世界を観察しつつも現実の人間世界のルールでの役柄に成り切らず、型を学びつつも単なる型を実行するだけのロボットに成り切らず、如何に「狂言」という記号世界のルールの元で動く他者、役柄に成り切れるか、これが狂言を演じるコツであり醍醐味であると、(飽くまで私は)思っています。そのために筆者は、よく自転車に乗りながら自分の周りの状況を狂言口調で説明する練習(遊び?)をやったりしますが…すれ違う人には完全に変人扱いされますね。
 本来別の狂言論的に論じるべき事を中途半端に話したんで話がそれちゃいましたが、伯母ヶ酒に戻りましょう。もともと狂言も論理的世界ですから、型の細かい部分にも大抵はちゃんと意味があります。この狂言で甥が酒の飲みにくさ故に面を外し、顔の横や膝頭にかけたりするのも、単に邪魔なものを別の場所に移しただけでなく、いつも鬼の顔が伯母の方を向いていて伯母を睨んでいるぞ、伯母が「見ない」と言いつつ覗きに来ようとしても、先ず鬼の顔に睨まれて恐れる様に、面を伯母のいる方向に向けているのです。(事実、甥が寝てしまった後酒蔵に入ってきた伯母は、先ず面を見て恐れ入ってしまいます。寝てしまっていたためその後の対処ができず露見してしまいますが、もし 寝ていなければ伯母がひれ伏している間に面を付け直し、うまく対処できたのでしょう。)ですから、型としては、無造作に面を顔の横や膝頭に掛ければいいというものではなく、常に面は伯母の方向、つまり橋掛かりを向いていなければなりません。師匠にもそう教えられました。実際筆者自身が演じた時に、それが実現できていたかはちょっと覚えがないのですが…。その辺の重箱の隅をつつく様な事も、ちょっと知ったうえで見たりするとそれはそれで楽しめると思います。実際に橋掛かりに面を向けていない演者を見たときに、あ、型ができていないと意地悪に見るか、ああ、ベロベロに酔っ払ってそんな事も頭になくなってしまっている甥を、演じているからわざとずらしているんだろうな、と微笑ましく見てあげるかは、観客であるあなた方の優しさにかかっていますが・・・。

文:湯田拓也

 公演情報

 


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