宗 論(しゅうろん)


何かと、法華僧をからかう浄土僧。

 

分  類:出家座頭狂言 出家物

登場人物:浄土僧(シテ)、法華僧、宿屋の亭主


 あらすじ

  身延山へ参詣した本国寺の法華憎と善光寺 へ参詣した黒谷の浄土憎とが婦りに道連れに なり、互いに宗旨換えをせまります。宿に 入って宗論をしますが、いずれも法文をでた らめに説き、相手を論破することができませ ん。ひと寝入りしたあと、2人は競り合って 読経をし、はては踊念仏・踊り題目をするう ち、念仏と題目を取り違え、法華も浄土も変 りはなく、釈迦の教えに隔てはないと悟りま す。

 みどころ

 宗論とは、宗派の優劣を争う論争で、古く より行われましたが、室町後期には特に法華 と浄土との間で激しかったようです。織田信 長が臨席して行われた天正七年(一五七九) の安土宗論は有名です。こうした現実を背景 に、本曲は浄土僧と法華僧の対立をどちらも 同じと締めくくって宗旨争いの愚かしさを描 いています。

 当時の民衆のイメージからか、法華僧は一 本気で強情な直情型(浄土僧は「情強者」と いっています)、 浄土僧は陰性で理屈っぽい 分別型として描かれています。法華僧は浄土 僧のことを「黒豆数え」といっていますが、こ れは「南無阿弥陀仏」の六字を唯一絶対の文 字としてあがめているのをからかったもの か、または黒玉の数珠を爪繰っているのをあ ざけっていったものでしょう。法華僧をいた ぶる浄土僧のいやらしさ,寝るときのしぐ さ、宗論で床を打つ扇の強さ、読経のリズム などに現れるキャラクターの対比は、宗論の 語りの場面とともに、見ていただきたいポイ ントです。

 さて、でたらめ宗論の内容ですが、法華僧 は「五十展転随喜の功徳(法華経は五十人ま で展転相伝しても受ける功徳は大きく、あり がたくて涙が出る)」を「芋茎(五十株ほどて んでに芽を出す芋を食えば、うまくて涙が出 る)」にかけて説いています。ちなみに芋茎(ずいき)と は里芋の茎のことです。また浄土僧は、「一念 弥陀仏即滅無量罪」を「無量の菜(斎に行って 何も菜(おかず)のないときにこれを念ずれ ば、たとえ焼塩一品であっても多くのすばら しい菜に思える)」と珍解釈しています。前者 は『法華経』に、後者は『一遍上人語録』な どに出てくる語です。

 本曲の最後、方法論にとらわれていた二人 は、人間の幸福追求という本来の目的は宗派 の壁をこえて同じであると、次のように和解 します。
「昔在霊山名法華 今在西方阿弥陀 娑婆 示現観世音 三世利益同一体」 (昔、法華と称した釈迦は、西方では阿弥 陀、俗世では観世音と示現されたが、三世に わたって衆生に利益を与える同一人物であ る)
 中国の南岳大師の作と伝えられる偈文(経 論の終りを締めくくる韻文)です。

平成十三年京都大学能と狂言の会パンフレット 文:道家慶子

 公演情報 


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