『百姓年貢物狂言』 〜「昆布柿」によそえて〜

                                    木村正雄

 『佐渡狐』という狂言は、『耳袋』と言う随筆の中に、佐渡には狐が居らないと書かれてあるのを素材に、佐渡の国と越後の国の百姓を争わせた、「百姓物」としては異色の作品であるが、その他の「百姓物」は上頭への年貢納めの二か国乃至三か国の百姓の話である。内容としては類似性が強いため、「大蔵流名寄」では、明治以後廃止狂言の中に入れられている物が多い。『餅酒』『昆布柿』『三人夫』がそれで、『角水』などは「名寄」にも載っていない。かろうじて『筑紫奥』『鴈雁金』『松楪』が「名寄」に載せられているが演ぜられる事は殆ど無い。
 参考までに、これらの狂言の国名と年責とを列挙すると、
 『筑紫奥』−奥筑紫(筑後) 唐物
       丹波 柑類
 『鴈雁金』−津 初雁
       和泉 初雁(雁金)
 『松楪』−津 子の日の松(門松)
      丹波 楪(ユズリハ)
 『餅酒』−加賀 実相坊の菊酒
      越前 圓鏡(鏡餅)
 『昆布柿』−淡路 柿
       丹波 昆布
 『三人夫』−淡路・尾張・美濃(年貢不明)
 『角水』−津 無塩鯛
      播磨 御教書紙(揖西紙)
      河内 早田米俵
などで、年貢によそえて和歌を詠むとか、舞を舞うとか、語りをするとか、相舞をするとかで、異色なのは『佐渡狐』の賄賂渡しと狐の成り格好を教える所と、『昆布柿』の変わった名前ぐらいである。名前の変わっているのは、『三人夫』で淡路が「つうじ」、尾張が「まかぢ」、美濃が「是へ参ろう」と言う名前で、名前を入れて和歌を詠むというのが趣向になっている。
 変わった名前や長い名前を付けるのは、庶民の目立ちがりから来ているのらしいが、既に、『沙石集』巻八の七「仏の鼻熏ぶる事」の中に、「阿釈妙観地白熊日羽嶽の坊」と言う名前が出てくる。阿弥陀・釈迦・妙法・観音・地蔵・自由・熊野・日吉・御嶽を網羅した名前である。『狂言不審紙』にも「寛政の比、奥平公の御内に、”筑紫分腹見高山峻高形部左衛門”」と言う名前の例を挙げている。
 『昆布柿』では、名前を問われて淡路の国の百姓の「問うて何しょ」は奏者で無くても驚きである。これは『三人夫』の美濃の国の百姓の名前が「是へ参ろう」と類似しているが、『昆布柿』の丹波の国の百姓の「栗の木ののぐぜいに、栗の木のぐぜいに、もりうたにたりうた、たりうたにもりうたに、ばいばいにぎんばばい、ぎんばばいばいやれ」と言う名前には唖然とするばかりである。
 初歩の口馴らしに咄されるという落語の中に『寿限無』と言うのがある。生まれた子供が長生きする様にと、住職に付けて貰った長い名がこの落語の目玉である。その名前と言うのは「寿限無、寿限無、後光の摺り切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、食う寝る所住む所、油小路ぶら小路、パイポパイポ、パイポのシューリンガイ、シューリンガイのグーリン台のポンポコナァ、ポンポコナァの長久命、長久命の長助」というのである。覚えるのが大変で、初歩の口馴らしに教えられるのかも知れない。
 狂言の場合も同じ事で、和歌や語りを覚えるのが大変である。良くまあ大変な物を覚えた事、と思って貰えても、その内容で笑いを取る事は難しい。長い名前の場合もそれを覚えたからと言って、笑いの対象としては一過性の物であって、内容があって面白いと言う物ではない。
 「脇狂言」の「百姓年貢物」は道行きで繰り返し述べられる様に、「毎年、毎年、足手息災で、御年貢を持って上ぼる」事を、為政者側も百姓側も喜ばしい事であるという「目出度い」狂言であって、面白可笑しい狂言では無い。内容も、出来る限り多くの国が登場するに越した事は無いのだが、特色ある御年貢で、観客を納得させねばならない上に、和歌・語りの対象として相応しい物で無ければならないので、登場する国も類似した物が多い。舞も一辺倒でなく、三段の舞の相舞、(『餅酒』)とか、二人で一人の左右を舞う変形の相舞い(『松楪』)とか、工夫が凝らされた物もあるが、技術的に困難な割りに、これも一過性の笑いしか取れない。
 唯々、真面目に初心を忘れず、初心に還って狂言の基本に忠実に淡々と演じなければならない。変に、観客を笑わせようなどと考えて、基本から外れると、苦い想いをする事になるばかりではなく、自らの喜劇に対する適応性すら疑わなければならなくなる。面白可笑しい狂言よりも演じ難いので、敬遠される事が多いのが、この種の狂言である。

初出 2001年京都大学能と狂言の会パンフレット


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