『胸突』『八句連歌』の台詞の疑問について
木村正雄
今回は方向を変えて、狂言の中の台詞の疑問の一つを採りあげてみます。
我々が演じている狂言は、学問的には茂山千五郎家本と呼ばれています。大蔵流の狂言二百一番が演目総数です。
今回はその中で、『胸突』と『八句連歌』との一部の台詞を採り上げました。
和泉流や鷺流では、この二つの狂言の最初の部分は異なっています。『胸突』は大蔵流と同じ様に、貸手が借手の所へ借状を持って返済を要求しに出かけます。
所が『八句連歌』では、借手が貸手の所へ返済遅延の挨拶に出掛けると言う趣向になっています。
当然、最初の部分は異なる訳ですから、三流が共通している『胸突』を材料にして、話を進めて行きます。
御承知の通り、『胸突』では、貸手が名乗りで借手の不実を詰り、
「この間もたびたび人を遣わせども、留守を使い、たまたま宿に居ては、使いの者に悪口を申すと言う。」
と言うくだりがあります。この台詞は借手に出会った時にも反復される常套句ですから、どなたも良くご存知の筈です。
所が、この台詞の意味が良く解りません。小学館の『日本国語大辞典』の「留守を使う」の項には、
「偽って留守であると言う。家に居ながら不在を装う。」として用例に『虎明本』の狂言『胸突』の
「そなたはなぜに留守をつかふたぞ」を挙げています。
留守を使うためには、家に居なければ使えない訳です。なのに、その後の「たまたま宿に居ては」では、「たまたま」と言う言葉の解釈に悩みます。
和泉流の台本と考えられている『狂言集成』の『胸突』には、
「この内も人を遣わせば、なさぬのみならず、色々悪口をいひ、却って使いの者を打擲いたいたと申す。」
又、和泉流の古典と思われる『狂言六義(天理本)』には、
「さいさい人をやれば、けっくはらをたてて、ざうごんを申と云」
とあります。
鷺流の山口県で集録されて佐野本の『胸突』では、
「切々人を遣はしますれども、今において埒が明きません。」
と簡単に済ませています。
大蔵流では、いつから今の様な台詞になったのでしょうか。
現在の大蔵流の基本の本とも言われている『虎寛本』の『胸突』には、
「初は八句連歌と同断」と書かれてありますので、『八句連歌』を見ますと、
「此間も度々人を遣せ共留守を遣ひ、たまたま内に居ては悪口を致すと申。」
と、千五郎家本とほぼ同じです。それでは古本の『虎明本』ではどうかと見ますと、
「まへかどは、八句連歌のことく」とありますので、これも『八句連歌』を見ますと、
「たびたび人をやり候へ共、留守をつかふか、たまたま内にいれは、悪口などを申され候と申て」
と、あります。
随分古くから言語明瞭、意味不明の台詞を言っていた様です。ここは、
「たまたま宿で、使いの者に遭うた時は、悪口を申すと言う。」
ぐらいに変えた方が話が観客に通じるのではないかと思います。
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